
規制の正体とは?
名著『放送禁止歌』
ギター講師の中村です。
少し前に『放送禁止になった楽曲たち』という記事を書いたのですが、この2週間ほどで結構いろんな人に読んでもらったようなので今回は”放送禁止とは何か?”について、ある書籍の紹介を踏まえつつ、自分の考えをまとめてみます。

1999年、ノンフィクション作家の森 達也さんが手がけたドキュメンタリー番組『放送禁止歌 〜歌っているのは誰?規制しているのは誰?〜』において、これらの放送禁止とされている音楽を流すと言う試みが行われたそうです。僕は番組を観ていないのですが、彼の著書『放送禁止歌』の中で、その番組制作の裏側が詳しく書かれてありました。特にこれらを禁止したのは一体誰なのかを掘り下げていく取材の様子が面白かったです。
最初にこの本を読んだのは高校生の頃。もう15年以上前のことですが、実は現在でも販売されているロングセラー名著です。
ミュージシャンたちの苦悩
放送禁止になった曲を作った何人かのミュージシャンへのインタビューによると、当人たちは「クレームもないのになんで放送されなくなってしまったのか分からない」と言ったようなニュアンスだったそうです。一体その曲のどの部分がアウトなのか。
「問題となる表現があるならば、別の言葉に書き換えて歌えば良いのではないか?そんなに放送してほしいなら、際どい表現は止めるべきだ。」と考える方もいるかもしれませんが、それは言葉を仕事にしている作詞家や物書きには通用しません。彼らにとってはそういう問題ではないのです。そのワードチョイスじゃないと、作品の意味がなくなってしまう…言葉を扱う人はそう考えるはずです。そうして生み出して紡いだ言葉たちをアッサリ放送自粛にしてしまう行為は、作り手にしてみれば非常に残念な気持ちだと、想像しただけで辛い思いです。
僕がこの本の中で印象に残ったのは、シンガーソングライター山平 和彦さんのインタビューで彼が言った言葉。
「……歌がもし生きているとしたら、……僕は誕生間もない子供を殺されたようなものかもしれないですね。」

音楽家は自分の作品に対してこのように考えます。安易に言葉を置換するなどはもっての外なのです。
では誰が禁止をしたのか?森さんが最初に目を向けたのは民放連でした。彼らが策定した”要注意歌謡曲指定制度”には放送する上で倫理的にアウトと見なされたたくさんの楽曲がリスト化され、民放各局にそれを通知していたということがわかりました。
放送禁止の正体とは何か?
・人種・民族・国民・国家について、その誇りを傷つけるもの、国際親善関係に悪い影響を及ぼすおそれのあるものは使用しない。
・個人・団体の名誉を傷つけるものは使用しない。
・人種・性別・職業・境遇・信条などによって取り扱いを差別するものは使用しない。
・心身に障害のある人々の感情を傷つけるおそれのあるものは使用しない。また、身体的特徴を表現しているものについても十分注意する。
・違法・犯罪・暴力などの反社会的な言動を肯定的に取り扱うものは使用しない。特に、麻薬や覚醒剤の使用などの犯罪行為を、魅力的に取り扱うものは使用しない。
・性に関する表現で、直接、間接を問わず、視聴者に困惑・嫌悪の感じを抱かせるものは使用しない。
・表現が暗示的、あるいは曖昧であっても、その意図するところが民放連放送基準に触れるものは使用しない。
・放送音楽の使用にあたっては、児童・青少年の視聴に十分配慮する。特に暴力・性などに関する表現については、細心の注意が求められる。
民放連が定めたその制度の中で、条件にそぐわないものをABCでレベル分けし、放送するかしないかを決めているということが分かりました。森さんは、民放連に取材のアポを取ります。そこでの回答を要約すると、要注意歌謡曲指定制度を用いていたことは事実としてあったものの、それは毎年膨大な楽曲が世に出るため放送局が歌詞のチェックをする手間を省くために作ったという程度のもので、法的な拘束力のない単なるガイドラインであるという趣旨でした。しかも1983年 (取材の16年も前)からずっと更新されていないのです。そしてこの一覧には、放送禁止曲として有名な岡林 信康『手紙』や美輪 明宏『ヨイトマケの唄』などは入っていません。一覧にない楽曲さえも規制しているのは、なぜ?放送局の都合?そう考えた森さんは次にフジテレビを取材します。
インタビューを受けたフジテレビの番組審議室考査部長は取材においてテレビ局の”臭いものには蓋をする体質”は業界の大きな失点であると言及しました。その上で、放送禁止と定義されている楽曲はやはり「お手軽に放送するべきじゃないと考えている」と述べました。実際、テレビ局は差別表現に関わる問題で部落解放同盟からの激しい抗議を受けた過去があるとのこと。その経験から、クレームが入らないように配慮をし、放送を”自粛する”という選択をしているのです。これはテレビ局の問題ではなく、日本におけるあらゆる組織や個人にも言えることだと思います。”知らないものは怖いから、触れなければ安全である”と言った感じでしょうか。

森さんは次に部落解放同盟を取材しますが、担当者からは「”放送禁止歌”について放送局に圧力をかけた過去はない」という趣旨の回答をされます。組織ではマスコミへの糾弾を記録しているらしく、そこには確かにそのような記載はなかったそうです。それだけでなく、取材に応じた担当者は部落差別をテーマにした楽曲が放送禁止にされていることすら知らなかったというのです。彼らの間ではとても共感できる歌の1つとして親しまれていたから、こんなに良い歌が世に広まらないなんて、おかしいと疑問に思ったとか。そしてインタビューで”規制の正体”が明かされます。
森さん「……もし糾弾などしていないのなら、メディアはどうしてこんな事態に陥るのでしょうか」
担当者「……皆が自分で考えないからでしょう。」
”放送規制”は誰かが決めたものでもなく、放送局や鑑賞者の中にある”自粛した方が良いのではないか”という不文律そのものだったのです。
社会と表現
部落に限らずセンシティブな問題を (←この表現がかえって問題をセンシティブにしているのではないかと思うと、この言い方が適切かどうかはわかりませんが、今回はその方が読み手に伝わりやすいと解釈した上で使います)芸術表現をするには表層的な言葉では当然ダメです。うまく言えませんが、上っ面の言葉でそれを語ること自体に敬意が感じられないというか。
とにかくそーゆう社会問題を不用意にエンターテイメントとして取り扱うことは倫理的ではありません。その意味では「自粛した方が良い」と言う不文律は少なくとも間違っていないとも思うのです。だからそーゆうテーマの音楽が (メディアで)自粛の対象になってしまったり、腫れ物扱いされてしまうことは、なんとなく理解できます。それを表現の自由だ、憲法21条だと叫んで日本社会の「臭い物に蓋をする」性質を批判することに、ある種の気色悪さも感じています。表現の自由を主張することにフォーカスすると、結局本質から逸れるので。それでは意味ないな、と。
人に何かを考えるキッカケを与えるには過激な表現が必要になります。もちろんそれは誰かを攻撃するとか、そーゆう内容はアウトですけども、マジョリティにとってセンセーショナルな問題は、当事者にとっては重大な問題でもあるワケで。そーゆう作品を発信すること自体を問題視するのはナンセンスですが、作品に罪はありません。そういった楽曲たちを掘り起こして語り継いでいくことは僕はいいことだと思います。
僕も1人の人間なので、そういった身分や人種、宗教などたくさんの社会的マイノリティの問題を抱える人や差別の当事者にとって、常によき理解者ではないかもしれませんが、頭ごなしに知らないことを否定したいとは思わないし、多くの人がそう思っていることを願っています。
Midville’s
中村
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中村
音楽講師 / ビートメイカー
『井上 陽水英訳詞集』 著: Robert Campbell <講談社>
内容は日本語を母語にしている僕たちでさえも「不思議!」と思わざるを
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