ギター講師の中村です。
少し前に放送禁止になった楽曲をテーマにした記事を書いたのですが、この2週間ほどで結構いろんな人に読んでもらったようなので今回は”放送禁止とは何か?”について、書籍の紹介と自分の考えをまとめてみます。
目次
名著『放送禁止歌』
1999年、ノンフィクション作家の森 達也さんが手がけたドキュメンタリー番組『放送禁止歌 〜歌っているのは誰?規制しているのは誰?〜』において、これらの放送禁止とされている音楽を流すと言う試みが行われたそうです。僕は番組を観ていないのですが、のちに文庫化もされた彼の著書『放送禁止歌』の中で、その番組制作の裏側が詳しく書かれてありました。特にこれらを禁止したのは一体誰なのかを掘り下げていく取材の様子が面白かったです。
最初にこの本を読んだのは高校生の頃。もうずっと昔のことですが、実は現在でも販売されているロングセラー名著です。
ミュージシャンたちの苦悩
放送禁止になった曲を作った何人かのミュージシャンへのインタビューによると、当人たちは「クレームもないのになんで放送されなくなってしまったのか分からない」と言ったようなニュアンスだったそうです。一体その曲のどの部分がアウトなのか。
「問題となる表現があるならば、別の言葉に書き換えて歌えば良いのではないか?そんなに放送してほしいなら、際どい表現は止めるべきだ。」と考える方もいるかもしれませんが、それは言葉を仕事にしている作詞家や物書きには通用しません。彼らにとってはそういう問題ではないのです。そのワードチョイスじゃないと、作品の意味がなくなってしまう…言葉を扱う人はそう考えるはずです。そうして生み出して紡いだ言葉たちをアッサリ放送自粛にしてしまう行為は、作り手にしてみれば非常に残念な気持ちだと、想像しただけで辛い思いです。
僕がこの本の中で印象に残ったのは、シンガーソングライター山平 和彦さんのインタビューで彼が言った言葉。
……歌がもし生きているとしたら、……僕は誕生間もない子供を殺されたようなものかもしれないですね。
音楽家は自分の作品に対してこのように考えます。安易に言葉を置換するなどはもっての外なのです。
では誰が禁止をしたのか?森さんが最初に目を向けたのは民放連でした。彼らが策定した”要注意歌謡曲指定制度”には放送する上で倫理的にアウトと見なされたたくさんの楽曲がリスト化され、民放各局にそれを通知していたということがわかりました。
規制の正体とは何か?
民放連が定めた制度は原則として下記のようなものです。
- 人種や国民、国家の誇りを傷つけたり、国際関係に悪い影響を及ぼすおそれのあるもの
- 個人または団体の名誉を傷つけるもの
- 人種や性別、職業、境遇、信条を差別するもの
- 障害のある人々の感情を傷つけるおそれのあるもの
- 身体的特徴を表現しているものも十分注意する
- 反社会的な言動を肯定的に取り扱うもの、特に薬物使用などの犯罪行為を、魅力的に表現したもの
- 性に関する表現で、視聴者に困惑・嫌悪の感じを抱かせるもの
- その他、表現が民放連放送基準に触れるもの
こういった条件に当てはまる作品を以下のようにABCでレベル分けして放送するかしないかを決めていたとのこと。
- Aランク: 放送しない
- Bランク: 旋律のみ放送可
- Cランク: 時間帯を考慮
著者の森さんは、民放連に取材のアポを取ります。そこでの回答を要約すると、要注意歌謡曲指定制度を用いていたことは事実としてあったものの、それは毎年膨大な楽曲が世に出るため放送局が歌詞のチェックをする手間を省くために作ったという程度のもので、法的な拘束力のない単なるガイドラインでしかないという趣旨でした。しかも1983年 (取材の16年も前)からずっと更新されていないという事実も発覚しました。そしてこの一覧には、放送禁止曲として有名な岡林 信康の”手紙”や美輪 明宏の”ヨイトマケの唄”などは入っていません。一覧にない楽曲さえも規制しているのは、なぜ?放送局の都合?そう考えた森さんは次にフジテレビを取材します。
インタビューを受けたフジテレビの番組審議室考査部長は取材においてテレビ局の”臭いものには蓋をする体質”は業界の大きな失点であると言及しました。その上で、放送禁止と定義されている楽曲はやはり「お手軽に放送するべきじゃないと考えている」と述べました。実際、テレビ局は差別表現に関わる問題で部落解放同盟からの激しい抗議を受けた過去があるとのこと。その経験からクレームが入らないように配慮をし、放送を”自粛する”という選択をしているのです。これはテレビ局の問題ではなく、日本におけるあらゆる組織や個人にも言えることだと思います。”知らないものは怖いから、触れなければ安全である”と言った感じでしょうか。
森さんは次に部落解放同盟を取材しますが、担当者からは「”放送禁止歌”について放送局に圧力をかけた過去はない」という趣旨の回答をされます。組織ではマスコミへの糾弾を記録しているらしく、そこには確かにそのような記載はなかったそうです。それだけでなく、取材に応じた担当者は部落差別をテーマにした楽曲が放送禁止にされていることすら知らなかったというのです。彼らの間ではとても共感できる歌の1つとして親しまれていたから、こんなに良い歌が世に広まらないなんておかしいと、当事者でさえも疑問に思ったとか。そしてインタビューで”規制の正体”が明かされます。
「……もし糾弾などしていないのなら、メディアはどうしてこんな事態に陥るのでしょうか」「……皆が自分で考えないからでしょう。」
”放送規制”は誰かが決めたものでもなく、放送局や鑑賞者の中にある”自粛した方が良いのではないか”という不文律そのものだったのです。
社会と表現
部落に限らず誰かが苦しんでいる社会問題を不用意にエンターテイメントにして取り扱うことは確かに倫理的ではありません。その軽さはむしろ不快感すらあります。そーゆう、「テーマだけ重くて表現の軽い消費的な作品」は是非とも自粛した方が良い、いや、淘汰されてもいいとすら思います。更に音楽家がそういったことを「表現の自由だ」「憲法21条だ」と叫んで日本社会の「臭い物に蓋をする」性質を批判することに、ある種の気色悪さも感じます。
でも芸術のいいところは、人に何かを考えるキッカケになりうることです。当事者にとっては重大な問題でもあるので、当事者と同じくらい生々しい感情的かつ情動的な表現が必要になります。だから上っ面の言葉やエンタメ的な姿勢は本当によくないのです。
だからそーゆう作品を扱うときには慎重になるべきだと僕は考えています。ただの話題作りなら残すべきではありませんし、ちゃんとメッセージを持っているなら語り継いでいくべき。
僕も1人の人間なので、そういった身分や人種、宗教などたくさんの社会的マイノリティの問題を抱える人や差別の当事者にとって、常によき理解者ではないかもしれませんが、頭ごなしに知らないことを否定したいとは思わないし、多くの人がそう思っていることを願っています。
Midville’s
中村


“放送禁止歌の真実…規制の正体とは?メディアから消された名曲と自主規制の闇” への2件のフィードバック
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