音楽家が政治的発言をするのはアリかナシか?パンクやフォークの歴史から見る「表現」の境界線

講師の中村です。
今回の記事は「音楽家が政治について言及するのはアリか?ナシか?」というテーマです。立場的に触れづらい人も多いと思いますが、僕の意見をツラツラと書いてみます。

目次

    僕は”アリ”だと思っています

    結論から言いますと、僕は音楽家が政治について言及するのはアリだと思っている派です。理由はいくつかありますが、SNSでキャンキャン吠えるのではなくミュージシャンが”曲で主張”する分には別にいいんじゃない?という感覚です。たとえ自分と違う政治信条であったとしても曲で尖ってる音楽はそれだけでカッコいいなぁと思うことが比較的多いですし、それに音楽家が政治を語るな!としてしまうと、パンクやレゲエ、ヒップホップ、フォークなどがメッセージを持たなくなってしまい、ジャンルの違いが”雰囲気の違い”でしか定義できなくなってしまいます。音楽の中には”特定のメッセージ性を含んでいるかどうか”が非常に重要な場合があります。これは音楽を思想で縛っているのではなく、「ある思想が音楽になった」「伝えることそのものがジャンルの役割になった」という歴史的背景があるということです。

    よって社会がおかしいと叫んで世間を味方につけたり、マイノリティが声を上げるのに音楽を利用することは、別に悪いことではないかなと考えています。

    パンク: 既成概念を破壊する (提案はしない)

    例えばパンクは1970年代当時のロックへの対抗心というか、反骨心のようなものから生まれています。ですがこの時まだ政治への不満というような大きなテーマはなく、ただ巨大化した音楽産業の構造的な問題に違和感を覚えた人が、第一線のスターを拒絶し、受け身な観客を軽蔑し、あえて見すぼらしい服装を着て雑な演奏と派手なパフォーマンスを見せ、大手レーベルではなく全て自分たちの手でDIY的に音楽活動をするそういった一種の荒さをとする価値観から始まったのです。パンクはチンピラ (punk)の音楽として派生した、新しい主張の形でした。

    その空気に共感するミュージシャンたちの中に、次第に政治や社会全体への不満を歌う人、アナーキスト (本来の意味は”無政府主義者”ですが、この文脈においては社会全体に対する抵抗、ひいては政治に対する反抗的な態度の若者)たちが現れ始めました。その代表格がイギリスのSex Pistols (セックス・ピストルズ)です。単なる反発や逆張りにも感じますが、「社会が俺たちを縛るな!」という怒りに似た感情が内在していたワケです。1990年を超えるとパンクはチンピラたちの音楽から、より聴きやすいキャッチーなものに変異していきますが、反政府的思想大手に属さない客に媚びないなどの精神は今も脈々と受け継がれているように感じます。ただ、パンクは既成概念を破壊するだけで「こうなりたい」という明確なビジョンが語られることがほとんどないのでちょっと無責任なんですが、これもある種の退廃主義的な美学なのかな、ということだと理解しています。

    レゲエ: アフリカへの憧れ

    実はレゲエも似ています。レゲエが生まれたジャマイカはイギリスから数世紀にわたる植民地支配を受けた国でした。1960年代後半、植民地は解放され、人々は自由に発言ができるようになりました。それまで溜まっていた「バビロン (白人特権的な社会システム)を壊して、ザイオン (アフリカへの回帰)を目指そう!」というメッセージがレゲエの骨格になっています。このような思想運動をラスタファリアニズム (アフリカ回帰主義)と呼びます。もともとジャマイカ人たちのルーツはアフリカですが、自分の意思でジャマイカに来た人はほとんどいません。故にアフリカに対する憧憬の念が非常に強いのです。この思想がスカやロックステディなどもともとジャマイカにあった音楽と結びついてレゲエが誕生したのでした。単にワン・ドロップのドラムとギターの2拍&4拍のカッティングを組み合わせただけが特徴ではないのです。もっと詳しいことはこちらの当サイト人気No.1の記事に書かれてあります…興味あれば読んでみてください、長いですけど。

    レゲエは宗教?ラスタカラーに秘められた意味とは

    レゲエが平和や愛をことさらに強調するのは、ジャマイカが牧歌的でのどかな場所だからではなく長きにわたる植民地支配を経験した反発によってです。レゲエが生まれて半世紀以上経っても、ラスタファリアニズムは色濃く受け継がれていますが、当時は宗主国イギリスへの反発だったものが、世界中に認知されるようになって現在ではジャマイカを代表する価値観や美学になっていきました。

    故にレゲエはジャマイカ人にしか歌えないのでは?と考える人もいます。ある意味ではそうだと思いますが、音楽は発展し変化するもので、レゲエから派生したダンスホール、レゲトン、ラヴァーズ・ロックなどのサブジャンルではラスタファリアニズムはそこまで受け継がれていません。なので思想と紐づいている必要は特にありません。日本のレゲエ界も特にラスタ的な動きはありません。ただかなりリベラル寄りになっていますが、そこは信条と関係なく切り離して楽しんでいます。

    ヒップホップ: 存在の証明、生き様の証明

    メッセージ性を持った音楽の中でも、ヒップホップは少し違います。ラップは社会に対する不平不満を直接言うのではなく「黒人が綴るありのままの記録」と言い換えることができます。要するに自分が今置かれている立場をリリックにするのです。「ブロンクス (ニューヨーク)で生まれ、父親は蒸発、母親はヤク中、生きていくために10歳で盗みを働き、ストリートに出てドラッグを売った、学校には行かず、毎日警察に睨まれた、いつも差別され、貧困は続く…」これは架空の設定ですが、なくはないリリックだと思います。Grandmaster Flesh & The Furious Five (グランドマスター・フレッシュ・アンド・ザ・フュリアス・ファイヴ)”The Message (ザ・メッセージ)”や”New York New York (ニューヨーク・ニューヨーク)”などの曲がまさにこんな感じです。日本人からすれば映画のようなこのストーリーは、彼らのリアルな生活。それをリズムに乗せて語るのがラップです。 (この点、ブルースとも似ています)。今も昔も、ラップはこーゆう内容が本当に多いです。

    つまり、行政に具体的な不満があってそれを吐き出したのではなく、資本主義社会の中で見て見ぬフリをされ続けた層による「俺はここにいるぞ」という叫び (存在の証明)に近いです。その結果、社会は彼らに同情し、感銘を受け、「黒人差別をなくそう!」「ドラッグを流通させるのをやめよう!」という社会運動につながった………と、思いますか?僕はそうではないと分析します。むしろ社会にとって”脅威”となり”無視できない存在になった”と考えるべきかと思います。彼らの生き様は生活のためには仕方がないとはいえギャングそのものだったワケですから。そんな連中が全国各地でたくさん作品を作っていたら普通に怖いですよね。

    90年代くらいに入ると、このラップ・ミュージックも次第に大きな音楽産業へと発展します。かつて貧困を歌ったラッパーたちは、サクセスストーリーを語るようになり、金色の太いネックレスを身につけて高級車に女性を乗せて徘徊する、そんなバブリーなプロモーションが一気に流行するのです。この一連の成功例が、次第に大きなカルチャーになっていきます。散々虐げられてきた人たちにとっては希望が持てた、ただ残念ながらラッパーの周りにいるギャング同士の争いも増えたというサイドもあるそうです。

    ラップが音楽として世界中に広まり半世紀ほど経ちました。2020年代に入った頃には「ヒップホップは最もUSAらしいアイデンティティの1」にまでなりました。直接的に政治に言及するラッパーは今も昔も少ないですが、アメリカ合衆国内で黒人の社会的な地位に非常に強い影響があったのは間違いないと言っていいでしょう。これらの全てが黒人たちによる半径5m以内の日常の記録に始まっています。

    フォーク: 我々は問題提起する!

    最後にフォークについて書きます。実は最も政治的な主張が強いのはフォークだと思います。言葉の意味からなんですけど、”Folk”は日本語で人々”と訳します。Peopleが意味する人々とは違って、同じ文化を共有する仲間内といったニュアンスです。その仲間内とは誰だったのかというと、田舎の労働者階級の人たち。仕事を歌いながら楽しむための民謡 (アコースティックで楽しめる音楽)のようなもの、それがフォークの起源です。

    現代人の我々は「音楽=アーティストの自己表現」と認識しますが、フォークは角度が少し違って、みんなが歌える簡単なメロディでなおかつ、みんなにとって大事なことを歌っている歌であるというのが基本的な定義になります。通称”ハンマー・ソング”として知られるアメリカ合衆国のフォーク曲”If I Had A Hammer (イフ・アイ・ハド・ア・ハマー)”では、「もしもハンマーを持っていたら、いたるところで朝な夕な打ち鳴らそう、みんなに危険を知らせるんだ、そして危険なものは壊すんだ」という内容になっています。これを肉体労働をしながらみんなで歌うんです。このように、フォークはアーティストの自己表現というより、みんなで声を上げることで社会にメッセージを伝える形で普及しました。

    フォークにはもう1つの側面があって、ある人物の人生を描いてそこから各々が教訓を得るなんてこともあります。”Tom Dooley (トム・ドゥーリー)”という歌は、実在する殺人犯Tom Dula (トム・ドゥーラ)が処刑されるシーンを描いています。(実際にTom Dulaは犯人じゃないとする説もありますが、当時は犯人として描かれています。) “John Henry (ジョン・ヘンリー)”という曲では「蒸気ドリルと勝負した作業員が最後は力尽きて逝ってしまった」という内容を歌っています。これらの逸話から、何を感じとるかは人それぞれ。そんな文学的な要素も強いのもフォークならでは。

    ここまで書いてきたように、最初から内容が政治的なものや社会を風刺したものに限定されていたワケではありません。ただその時代の人が「伝承していくべきと判断したメッセージ」を残して、みんなで歌って楽しんでいたと考えられます。つまり”人々”に何かを伝えるフォーク・シンガーは、独善的な自己表現ではなく”人々”の代弁者のような立ち位置だったと解釈できます。これは現在活躍するフォーク・シンガーも同じスタンスではないでしょうか。

    Bob Dylan (ボブ・ディラン)なんかはその象徴的な存在だと思います。彼の作風はフォーク (アコースティック)にとどまりませんが、その長い音楽キャリアの中で移り変わる時代と共に様々な社会への問いを投げ続けています。日本でも60-70年代のフォーク・シンガーは非常に強いメッセージを持っています。例えば部落問題を取り上げた岡林 信康、反戦を謳った髙田 渡、遠慮なくタブーに触れていった忌野 清志郎….。岡林 信康の”手紙”なんかは歌詞だけ読んでも泣けてしまうほどいい歌です。

    ただ、そういったセンセーショナルなテーマを直接的に歌うことは、メディアとの相性が非常に悪いです。そーゆう歌が世に出る度に日本が「臭いものに蓋をする社会である」ということまでめくれてしまい、表現とは何か?と考えてしまいますね。規制の正体とは?と言う記事も書いてるので興味ある方は読んでみてください。

    放送禁止歌の真実…規制の正体とは?メディアから消された名曲と自主規制の闇

    制度の外にいるミュージシャンと、政治の関わり方

    これまで書いてきたように、音楽の中には何かを訴える手段として発展したものがいくつかあります。ここに書いたのはほんの一例で、知られてないものもたくさんあると思います。こんな風に、僕は”作品を通じて”であれば政治的なメッセージを伝えることはアリだと考えています。あくまで僕の中の倫理尺度の話ですが。

    政治を議論するということは、右vs左という単なる横の二項対立ではなくて、知見のある人vs浅い人という縦の対立や、その問題の当事者vs部外者という場外乱闘もあると僕は見ています。なので、どの立場から何を言っているかが分からないと政治批判は言葉が軽く受け取られてしまうと思います。これはミュージシャンだけでなく、全ての人に言えることです。でも作品を通して何かを言う場合には、後で主張や表現方法を変えることは難しいです。ゆえに慎重に言葉選びがなされ、制限された文字数 (音節数)や比喩、押韻などの表現技法を駆使するため作品としての深みが出ます。それがたとえ自分の考え方と異なる主張であったとしても、なんか魅力的に見えてくるし、考えるキッカケにもなるのです。

    一方、発信場所がSNSになると、慎重に言葉を選んで歌詞を書くミュージシャンもこうなります。

    名前隠す必要もないくらいXでは有名になってしまった投稿ですが、このアカウントは平和や反戦をテーマにした曲を書いているバンドのボーカルの方のもの。選び抜かれた言葉を使う歌詞と違って、暴力的で使い捨ての言葉で話す方がSNSでは良い意味でも悪い意味でも目立てるので、炎上はしたもののWEBマーケティング的には大成功なのかもしれませんが…、でもこの投稿の後に彼らの作品を聴いても、やっぱり全然響かない。

    だって、彼を見ているのは人間ですから。それを見た人がどう思うか?というところは何よりも大事じゃないですか。マーケティングの結果の数字よりもずっと。アンガーマネジメントができない人なのか、イヤミで書いたのか、あるいは権力者に噛み付くブランディングなのか分かりません。まぁ、いずれにしても書く時には彼なりの正義感があったんでしょうけど、正義はこんな軽薄な言葉で成し遂げられるほど簡単ではないです。やはり政治に何か言いたければ曲でやった方がいい、僕にとってはそう思わざるを得ない決定的なサンプルとなりました、このポストは。

    僕もそうですが音楽家/音楽講師のような立場の人間は基本的にはあらゆる制度の外側にいて、この職業をもって政治の当事者になる機会はほとんどないですし、誰に言われたワケでもなく自己責任で”食えるかどうかも分からない不安定な活動”を仕事に選んだワケでなので、特権的に保護が必要な仕事ではありません。だからこそ俯瞰で、冷静に時勢を見ておく必要があると思います。不用意に「政治家はみんなウソつきだ」とか「今の日本社会はおかしい」などとと抽象的に嘆いてみても、現代人はそのレベルの煽りではもう興奮しません。社会問題を感情的に見ることがいかに愚かであるかはみんな理解していますし、「もっとこうすればいいのに」という素人の思いつきが斬新なアイデアなワケもなく、実は「誰もやらない理由がある」ことぐらいちょっと調べればいくらでも出てくるのです。クリエイターとしての説得力を失いたくなければ言いたいことを言う”と”表現する”をはき違えてしまわないことが何よりも大切です

    他罰が趣味の大人は、最も簡単な快楽に溺れる猿

    僕はこう見えて現代社会に対しては特に大きな不満はあまりありませんが、不満や批判そのものが悪いとは全く思いません。批判精神はむしろいいものだと思います。それによって社会がもっと豊かになってくれればいいなぁとさえ思います。

    そんなことを言うと「え?人を豊かにするのは音楽の役目ではないの?」という指摘が入りそうですが、それはあくまでも小さい子供やティーンエイジャーにとっての話。大人の場合は「豊かな人が音楽にリソースを割く」という逆の現象になりますので、残念ながら音楽が一直線に社会を豊かすることはないです。ルネッサンス時代も、ジャズの黄金時代も、歴史を見ればだいたいそう。音楽、ひいては芸術は、その時代をありのまま写す鏡ですから、良くも悪くも変化するのはいつも社会が先なのです。

    「批判はいいこと」と言いましたが、批判の本質は”改善のための問題意識”を持つことで、あくまでもレベルを上げていくために自己批判や他者批判をするものです。ただし批判や不満を垂れ流すことに快感を覚えてしまう人も中にはいます。その人の中では筋の通った、視座の高い意見になっているのかもしれませんが、周りの人はそういった他責思考や他罰行為が習慣化した人を、正常な精神状態であるとみなすことはせず「最も簡単な快楽を手に入れたがる猿」ぐらいにしか感じていません。そのような鬱屈した人はSNS上では赤子の手を返す前に探し出すことが可能です。それくらい溢れかえっています。

    音楽家ならそーゆう感情は作品作りの原動力にしてしまえばいいと思います。音楽をしていないなら、音楽を始めればいいと思います。(ウチは音楽教室です、サポートできます) 要は使い方ってことです。

    他責は何かをサボッてきた人間の成れの果てだと思います。誰かを責めるのではなくて、他の方法を探す、本当にこれが正しいのか立ち止まって考える、この力がクリティカル・シンキング (批判的思考)。そして、間違っている人間を大声で、罰してはいけない。これが基本だと思います。

    最後に、有名な資産家Warren Buffett (ウォーレン・バフェット)の名言を皆さんに贈って、締めくくりたいと思います。(本当はWarren Buffettが言われた言葉らしいですけど。)

    称賛は名指しで、批判はカテゴリーごとに

    Warren Buffett

    Midville’s
    中村