考える音楽講師素晴らしき詩の表現の世界

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素晴らしき詩の表現の世界

ギター講師の中村です。
今回は「言語と詩表現」がテーマの記事です。

僕は長らく”作詞”というのはしておりませんが、言葉を使って作品を作るのを辞めるに至った動機があります。それは決してネガティブな理由ではなくて、「言葉ッてすごい」と衝撃を受けた体験によって、僕はこれを扱えないと思うようになったことが理由です。

人は言葉以上のものを受け取る

コミュニケーションの9割以上は非言語である」という話があります。つまり、意思の疎通や感情表現をするのに、言語が占める重要性は1割ほどもないということなんですね。じゃ何をもってコミュニケーションをしているのか、それをグラフにしたのが下の図。

人は何かを受け取る時に、言語に頼らずに所作や表情を見たり話し方のトーンを聴いて行っているということが分かります。メッセージ (言葉)そのものよりも、伝え方 (トーン)の方が先に気になってしまうのはそーゆうことなんでしょうね。それで主張の本質が逸れること (トーンポリシング)が問題視されるのも、なんだか頷けます。

ところがメールなどの100%文字しか存在しないシチュエーションでも、相手の感情をある程度の精度で読み取ることができます。これは詩の世界にも言えることですが、詩のすごいところは感情や風景が短い言葉で伝わってくる点です。

言葉のみで映像を作り出す詩

歌詞や川柳、俳句などは文字しか持たない表現手法です。通常のコミュニケーションとは違って、詩の世界の面白いところは”書かれていないことまで感じさせられる”こと。言葉ッてよくできてるなぁと感心してしまいます。

中学生になると習う松尾 芭蕉の俳句「古池や 蛙飛び込む 水の音」を聞いて、おそらく多くの人が「山の中にある小さな苔むした池に、静寂の中1匹のカエルが飛び込んだ音がポチャンと響いた映像」を想像して、この風景に流れる”水の音”がどれほど静寂なのかを演出しているという妙味を味わっているのではないでしょうか。

松尾 芭蕉が生きた時代から数百年経ち、全く違うライフスタイルを送っている現代の僕たちも、江戸時代の人と同じ風景を頭に思い浮かべて、そこに風情を少なからず感じているのッて、単純にすごくないですか。

それに加えて、僕らは無意識のうちにどれだけ書かれてないことまで読み取っていることに気付かされます。

全て説明しないストレスが説得力を強める

干場 しおりさんという方の短歌を2つ紹介させてください。

うつくしく くずれていった 角砂糖 つぎの話題が 少しこわいわ

皆さんこれ読んで、どんな場面を想像しますか。何も感じなかった人は、ぜひ想像してみてください。余談ですがこの詩を初めて読んだのは高校生の時で、僕が”言葉による作品作り”を辞めたキッカケになった短歌でもあります。

どうでしょうか。この五七五七七を読んだ時、最初に浮かんだ風景はこんな感じでした。

言葉には書かれてませんが、向かいには男性が座っていて、時計の針の音が静かに流れていて、口を開けば気まずい、開かなければもっと気まずい、みたいな空気で、角砂糖が溶けていく様しか見るものがない、目を合わせることもできない。そんな感じの風景。くずれていったのは角砂糖じゃないのでは…と不安にすらなってくる。そんな詩です。

もちろん別の捉え方をした人もいるでしょう。それが間違っているワケではないと思います。どうにも受け取れるように書かれてますから。ただ、書かれてない情報があまりにも多くて、言葉ッてこーゆう風に使うんだ…と衝撃を受けたことを今も忘れません。

もう1作ご紹介します。

とけてから 教えてあげる その髪に 雪があったこと ずっとあったこと

すごく可愛らしい短歌だと感じました。ただ頭に雪が積もっただけなのに、まるで自分だけが秘密を知ってしまったかのように嬉々として2回も字余りしてはる。普通2回もしませんよ、字余り。きっと寒さも忘れて相手を見ていたんだろうなぁと思うと微笑ましい気分になります。

この2作品とも、登場人物が自分だけでないことを暗示していたり、主人公の気持ちがポジティブ/ネガティブどちらとも受け取れるような余白を残しています。全てを説明しないストレスが、読み手に対して説得力を強める動機になっている例だと思います。特に俳句や短歌などの限られた文字数の中でこれだけ多くのことを表現することは僕にはできません。

平安時代から伝わる"フリースタイル"バトル?

日本語の詩は恐らく和歌が最も古く、短歌同様にたった31文字 (五七五七七)で爆発した感情を表現するスタイルでした。文字に限りがあるからこそあれこれ言葉を練らないといけなくて大変ですよね。

近頃音楽ではヒップホップのフリースタイルが流行しています。これはリズムに合わせて韻を踏みながら相手を即興で罵倒し合う競技です。1990年代から定着したヒップホップも、先人たちが牽引した結果ここまで来ました。これが結構日本語との相性もいいみたいです。

実は和歌の時代 (平安時代)から、日本には”フリースタイル”が存在していました。当時は”歌かけ“と呼ばれていました (現在も地方ではギリギリ残っているとか)。歌かけは即興で五七五七七の歌を詠むというもので、嫁の小言を言ったり冗談を言って聴衆を笑わせたりします。相手が使った単語をピックアップして、そこから連想して歌を詠み、そしてまた次の人に繋げるというのが基本で、相手を貶めるバトル要素はないものの、やっていることはフリースタイルのラップと大差ありません。

表現を巧みにするのは"制限"である

話を詩に戻しますが、現代において詩といえばJ-POPの歌詞をさすことが多いです。大衆音楽では散文詩といって、韻律など定型のない自由な言葉で書かれます。しかも年々イントロやギターソロは短くなり、やや早口めに歌うのがトレンドだったりする関係で、歌詞が長文化している傾向にあります。要するにルール無用。格闘技で言ったら、顔面からローまでの直接打撃あり、掴み&投げ&寝技OKで肘、膝、頭突き、目突き、金的も解禁された、ほぼケンカスタイル。最強の様式です。言いたいこと全部言えちゃいます。

…とは言っても、J-POPの歌詞を素読するとなんやかんやで七五調もしくは七七七五調になっているケースが多いのです。文字数だけでなくメロディを7音節+5音節などの形にして帳尻を合わせることもあります。結局、我々日本文化を共有する人たちにとっては、それが書きやすく、伝えやすく、また聴きやすいということなのかもしれません。

決められた文字数で書いたり、ラップのように韻を踏むなどの制限があると、表現はどんどん巧妙になっていきます。歌はせいぜい3分〜5分という短い時間芸術なワケですが、その中には3分〜5分以上の世界が存在しています。言葉以上の背景や文脈が込められているのです。

最後に、森山 直太朗の名曲『生きてることが辛いなら』から、僕の好きな部分を抜き出してシェアします。

生きてることが辛いなら くたばる喜びとっておけ

結構過激な始まり方をするんですが、淡々と七五調で曲が進んでいって、最後の一節でホッとさせられる。こーゆうのもまた表現方法の1つ。

言葉ッて不思議ですね。

 

Midville’s
中村

音楽講師 / ビートメイカー

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