
ギター史 〜アコースティックギターの始祖C.F.Martinとその時代の音楽〜
ギター講師の中村です。
ギター史について、ツラツラと。
ギターの歴史は系譜から話すと古代ギリシャにまで遡りますが、古い方から順に話すのは膨大で、皆さんも古い時代のイメージなどしにくいでしょうから、”ギター”と言う楽器が成立した近現代あたりから中心に書いてみます。そして時代ごとに音楽家や楽器メーカー、音楽ジャンルにスポットを当てて書いてみようと思います。
今回はアコースティックギターの始祖C.F.Martinとその時代の音楽について。
世界最古のギターメーカー、Martin (マーチン)

1833年にニューヨークでMarin (マーチン)を創業したC.F.Martin (クリスチャン・フレデリック・マーチン)は元々ドイツ人でした。と言っても当時はドイツではなく神聖ローマ帝国なんですけども。ザクセン選帝侯領という場所で1796年に生まれます。彼の父Johann Georg Martin (ヨハン・ゲオルグ・マーチン)は家具職人でしたが、楽器も作れるテクニシャンでした。
この時代、ナポレオンが自由と平等を掲げて周辺国と対峙し、1815年に失脚するまでヨーロッパは大国同士が覇権を争う混乱期でした。そんな最中15歳のC.F.Martinはオーストリア帝国ウィーンにいるギターの名家Johann Georg Stauffer (ヨハン・ゲオルグ・シュタウファー)に弟子入りします。入社後は製造ラインの責任者になるまで出世しました。その後現地で出会った女性と結婚し、その父であるKirl Kühle (カール・キューレ)のギター製作所でも働き始めます。

ところで、Martinの最初の師匠であるStauffer (シュタウファー)がデザインしたギターは当時にしては非常に画期的でした。それまでブリッジで結ぶのが当たり前だった弦をピンで挿し留めたり (ブリッジピン)、糸巻きを木製から金属製に変えたりするなど、今となっては当たり前のデザインですが、その始まりはStaufferだったと言われています。またギターの作り方もドイツ式 (最後にネックを取り付ける)とスペイン式 (ネックを取り付けてからボディを完成させる)の2種類あるのですが、現行のアコースティックギターが全てドイツ式なのはMartin (もといStauffer)がドイツ人だったからではないかと言われています。
下の写真がドイツ式の作り方。アコースティックギターのネックは宮大工のようなアリ溝にガシャンと嵌め込むように組み立てます。

さて話を戻して、息子であるC.F.Martinがウィーンで幸せに暮らしている頃、ザクセンにいる父Martinは変わらずギター職人として製作活動をしていました。…が、当時のザクセンでは組合 (ギルド)が非常に力を持っており、所属する組合によって仕事の内容が制限されるという制度がありました。彼らは執拗に「組合に属していない者が弦楽器を作ることを許可するな!」と苦情を国王に申し立てるなど法的措置をとって非組合員である父Martinを窮地に追い込みます。もちろんすでにギター (クラシックギター)という楽器はある程度の市民権は得てはいたのですが、楽器としての地位は非常に低く、バイオリンやチェロの方が格式高く、人気も遠く及ばないという状態。なので必然的にバイオリンやチェロの職人が組合の中で発言権を持つようになり、家具職人ふぜいがギターとかいう”オモチャ”で商売することは、かなり嫌がられたとのことです。
このヨーロッパ特有の閉鎖的な気質は息子であるC.F.Martinにとっても良いものではありませんでした。彼は職人としてもビジネスマンとしても優れていたため、仕事に苦労する父を見て「もっと自由に商売ができるところへ行った方が良いかもしれない」と思い、国外へ旅立つことを決心します。1833年、C.F.Martinは奥さんと幼い子供を連れてニューヨークに渡るのでした。
当時のアメリカは、独立して半世紀ほどしか経っておらず、今の領土と比べると半分以下。西部も南部もハワイも、まだアメリカ領ではありません。そんな時代に、マンハッタンのハドソン通りにオーダーメイドのギター工房を構えます。
音量の問題
はじめのうちはMartinギターを販売する代理店がいて、商売は順調でしたが、しばらくするとニューヨークの事業を売却し、より良い楽器製作を行うために1839年にペンシルバニア州ナザレスに工房を移します。現在あるMartin本社も、ナザレスが拠点です。写真は現在のMartin工房。

アメリカでC.F.Martinはマンドリン、バンジョー、フィドル (バイオリンのこと)など、当時アメリカで最もポピュラーだった弦楽器たちと出会います。さまざまな国からさまざまな人種が移住してきたため、異国の音楽や異国の楽器に触れることは珍しくありませんでした。しかしこれらの楽器と比べてギターは音量が小さすぎるという問題がありました。これではバンジョーやフィドルと一緒に演奏するのは難しいと。
19世紀のギターはボディが小さく、弦はガット (羊の腸: テニスラケットの網と同じ素材)を使用。他の楽器はこの時代にどんどん進化し、流行は派手でダイナミックなオーケストラ音楽に移行していくのに対し、ギター製作家たちは非常に保守的で進化が遅く、これと言って目立った動きがなかったのです。ヨーロッパでは「ギタロマニア」という言葉が浸透するほど、熱狂的なギターファンがいて期待されている楽器でもありましたが、やはり知名度は低く残念ながら音量問題を含めてギターを改革できる人材はほとんどいなかったのです。音量に関しては現在でも製作家たちが抱える重要な課題で、少しずつマシになっているとはいえ未だに”ギターは不完全な楽器である”と見る向きもあります。バイオリンはもっとボディが小さいのに、コンサートでは1本でも十分主役になれる素質を持っています。それに対してギターはせいぜい歌の伴奏にしか使えない、主役になれない楽器でした。
Martinにとって師Staufferからの教えを守ることはある意味で足枷にもなっていました。C.F.Martinはギターの楽器としての地位向上のためあらゆる改良を重ねていきます。ヘッドの糸巻きをサイドから差し込む形に変え、ブリッジの形状も長方形に。ボディは少しだけ大きくなって、内部のブレーシングもX字にクロスした強度の高いものを考案します。
斯くして今我々が知っているアコースティックギターの形に近づいていきました。下の写真は1860年代のMartinギター。

ドレッドノートの誕生とアメリカの音楽変遷
19世紀後半、ヨーロッパではクラシックギターに革命が起きていました。スペイン人のギター製作家Antonio De Torres (アントニオ・デ・トーレス)は伝統的なギターの製法を改め、音量が大きく出せる設計を編み出したのです。保守的なギター製作家たちがそれをすぐに広めるには至りませんでしたが、兎にも角にも大きな音の出る最初のギターがスペインで誕生します。
アメリカでギターの変化が起きるのはもう少し後でした。
同じ頃アメリカではマンドリンが大流行 (音色や雰囲気は上の動画を参照)。元々イタリアの楽器で、背中の部分がボールのように丸くなっています。日本にも琵琶というよく似た弦楽器がありますね。
創業者C.F.Martinの孫Frank Henry Martin (フランク・ヘンリー・マーチン)が3代目社長に就任した頃にマンドリン製作を開始し、こちらもビジネス的には成功していくのですが、このブームで主導権を握ったのは後のライバル会社Gibson (ギブソン)でした。Gibsonはこの丸くて抱えにくい楽器を立って弾けるように改良したのです。ボディをより平たく小型化し、特徴的な彫刻を施し特許を取り専業的に作っていました。ヨーロッパ由来の丸いクラシック・マンドリンはもはや時代遅れとなり、Gibsonが作る「フラット・マンドリン」がアメリカではスタンダードになっていきます。クラシック・マンドリンに比べて少し音がまろやかな気がしますね。実際の響きは下の動画を。
この間もギターに対する試行錯誤は続いてます。ギターのボディを大きくしてみたり、バンジョーやマンドリンと同じ鉄製の弦を装備してみたり…。鉄弦は従来のガット弦と比べると音量はかなり上がりますが張力が倍ほど違うため、それに耐えられる作りにしなければなりません。また押さえる指が痛くならないように、弾きやすさの調整が必要になります。このように、単に音量の大きなギターを作るだけでもたくさんの課題がありました。

そして遂に1916年、音量や剛性、デザイン、演奏性など全てのバランスが均衡した、過去最大の容積を持つ最初のギターが誕生します。これがいわゆるアコースティックギター (フォークギター)の始まりで、その大きさはイギリスの戦艦 (当時世界最強と言われていた)からそのまま名前を取り、ドレッドノート (D)と命名されました。設計したのはもちろんFrank Henry Martin。この巨大なギターがひとまず音量問題を解決したのです。また金属特有のきらびやかな音色は、それまでのハープのような音色とは全く異なるものでした。
この頃ちょうどハワイアン・ミュージックが流行し、ウクレレも生産していたMartinはさらに知名度を上げていきます。

ハワイブームの間、ドレッドノートのギターはある商社のオーダーでOEM生産されていましたが、世界恐慌によって発注元の会社が倒産したことを契機に、1931年から自社製品として生産を開始。モデル名を”D-28″としました。
1933年、Gene Autry (ジーン・オートリー)という映画スターがMartinのD-45 (D-28をベースにグレードアップされたMartin最高峰モデル)をオーダーしたことが発端で、世間に広くドレッドノートがお披露目されることになりました。
そしてさらに追い風が吹きます。アメリカではカントリーやブルーグラスなどの新しい音楽が作られ、それがブームになり、当時の人気歌手たちがこぞってMartin社のギターを使い始めたのでした。
ブルーグラスというジャンルは馴染みない人がほとんどだと思いますが、アメリカ人 (特に白人)の心の音楽とも言えるルーツ音楽の1つです。基本的にはフラット・マンドリン、バンジョー、フィドル (バイオリン)、コントラバス、ギターなどのアコースティック楽器の奏者が最大5名くらい集まって、テンポよく歌ってハモりながら、間奏でアドリブ演奏を順番に回し合う音楽です。この動画は若手ギタリストMolly Tuttle (モリー・タトル)がフィドル、バンジョーと3人で演奏したもの。終始速弾きアドリブソロを回しています。実は日本でも神戸大学や東北大学などの有名大学に行くと「ブルーグラス同好会」なるものが存在していたり、宝塚市や札幌市では定期的にブルーグラスの音楽フェスを開いてますので、ちょっとマニアックですがそれなりにファンがいるれっきとしたジャンルなんです。
またブルーグラスと相互に影響し、共に発展してきたのがカントリーでした。どの曲もとても陽気な気質を持っています (アメリカっぽい)。近年代表的なカントリー歌手はTaylor Swift (テイラー・スウィフト)で、彼女の楽曲をよく聴くとギターだけでなくマンドリンやフィドルの音色が混ざっていることが多いです。
これらの音楽が発展していく中で、カントリーやブルーグラスに使うギターはやっぱりMartinのドレッドノートサイズのアコースティックギターである必要がありました。(他に選択肢もありませんでしたし。) かくして今日我々が目にするアコースティックギター (フォークギター)は、当時のニーズに合わせてMartinによって改良された結果生み出された楽器だったのです。
創業からちょうど100年。Martinはアメリカ国民が最も必要とするギターになったのです。そして現在に至るまで、アメリカの伝統音楽の基礎を支え、白人のルーツ音楽特有の色を作ってきました。この出来事はギターの楽器としての地位を確実に1つ上に押し上げたと言って良いと思います。
Martinが作った伝統を支持するメーカーたち
Collings (コリングス)やMerrill (メリル)、SantaCruz (サンタクルーズ)など、Martinを非常に深く研究している他メーカーが時に本家を凌駕するレベルのコピーモデルを作っていることがあります。その完成度はマニアが唸るほどの出来です。
4代目となるC.F.Martin III (クリスチャン・フレデリック・マーチン3世)が社長に就任した1940年代に入るとGibson社が”J-45”と言う似たようなサイズ感の大きなギターをリリースします。そして戦後の音楽がカントリーからロックに移った頃、若者が熱狂したスターたちが手にしたのはMartinではなくGibsonのギターでした。Gibsonは派手なルックスで力強く響くため、シンプルな見た目で美しい音色のMartinとは対照的と言えますが、ちょうどよく棲み分けができて現在ダブルスタンダードとなっています。
ただ大きく異なるのは、CollingsやMerrillなどMartinに強い影響を受けた (いや、Martinに取り憑かれたと言っても過言ではない)メーカーが数々存在するのに対して、Gibsonギターを徹底的に追究するメーカーはあまりないという点だと思います。(僕が知らないだけかもしれませんが…。) ここに関しては”伝統”を作ったMartinの先行者利益というか、やっぱりルーツ音楽に根を張った強みなんじゃないかなと思いますね。
スペインの田舎の楽器に過ぎなかったギターは、アメリカに渡って姿を変え、大衆のための楽器へと進化 (分岐)したのです。世界最古にして最大のギターメーカーの創業者C.F.Martinと、音楽の移り変わりから見たMartin社の歴史についてのお話でした。
Midville’s
中村
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中村
音楽講師 / ビートメイカー
『井上 陽水英訳詞集』 著: Robert Campbell <講談社>
内容は日本語を母語にしている僕たちでさえも「不思議!」と思わざるを