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ギター史 〜クラシックギターの近代化〜

ギター講師の中村です。
ギター史について、ツラツラと。

 

クラシックギターの近代化について。

このジャンルは、西洋の近代音楽史が好きな人ならきっと楽しい分野だと思うのですが (音楽史好きの皆さんに応えられるかどうかは別として)、僕は音楽史というより単純に歴史が好きなので、脱線しないように頑張ります。うっかりしてると「それは違う!!」と難癖つけてくる連中の多い危険なテーマでもあるので…。あ、もちろん指摘は歓迎しますが、諸説あることであれば自分のフィールドで勝手にご発信ください。

19世紀におけるギターとギター音楽の進化

19世紀のある時期まではギターは写真のように細長い楽器でした。しかも弦は6本が主流だったワケではなく、10本だったり、7本だったり…。中には5コース (2本1組の弦が5セット、つまり主弦と副弦を含めた10本弦のギター)というのもありました。ちょうどこの写真のギターが5コースです。現在のスタンダードとはずいぶん異なりますが、外観だけでなく作り方や内部の構造も、使う素材も音色も大きく異なる楽器であることがわかっています。この小さいボディのギターは現在では「19世紀ギター (通称)」などと呼ばれています。

19世紀のヨーロッパは「古典派」と呼ばれた音楽から「ロマン派」という音楽に切り替わった時代でした。ロマン派は感情的な表現や主張を好み、音楽にタイトルを付け、言葉を使わずに詩や風景を聴き手に想像させる、などという全く新しい手法がとられています (=標題音楽)。時代はフランス革命直後、ヨーロッパ各地で反乱や覇権争いが多発する混乱期。貴族のための世の中ではなく、一般市民が社会の中心となり始めた頃です。それまで (古典派)の「音楽=王室のためのもの」という価値観とは異なり、また洗練された形式美も過去の遺産。庶民でもお金を払えば音楽家の演奏を生で聴くことができ、楽譜を購入できる新しい時代のちょうど過渡期でした。

時代の変化に伴い、楽器もまた色々な面で変化を遂げました。例えばイタリアでピアノという楽器が成立し、それが1850年代までには今の形になったと言われてます (ピアノは意外と歴史が浅い)。またグランドハープがペダルを装備して現在の形になって世に普及したのも19世紀初頭。バイオリンや管楽器など古くから存在していた楽器たちも音量面で大きく改善されました。このように新たな楽器が世に出たことや、楽器の大音量化によって音楽シーンも当然移り変わっていき、大きなスケールでのオーケストラ音楽が人気になります。

残念ながらこの流行りにギターが乗ることはありませんでした。スペイン人ギター製作家Antonio De Torres (アントニオ・デ・トーレス)による革新的なギター製法もありましたが、すぐには普及せずギターとしての発展もそこまで目立つものはなかったのです

ロマン派ギタリストの中にはNapoleon Coste (ナポレオン・コスト)、Janos Kaspar Mertz (ヤノス・ガスパール・メルツ)など、後世に名を残した名手もたくさんいたんですが、時代がギターという楽器そのものにあまり注目しなかったという背景もあります。

 

しかしFrancisco Tárrega (フランシスコ・タレガ)が登場によって流れが変わります。

タレガとトーレス

Francisco Tárrega (タレガ: ターレガやタレルガと呼ぶ人もいます)は19世紀後期に登場したスペインのギタリスト。この写真の方です。ギター特有の”トレモロ奏法”を駆使した『アルハンブラの思い出』という曲が有名なので、クラシックギターを嗜む人ならレベルを問わず多くの人が知っているであろう人物ですね。

トレモロ奏法はコードのアルペジオの隙間にタタタタ…という同音反復をひたすら細かく入れ続ける技術。アルハンブラ宮殿 (9世紀にイスラム教勢力が建てた建築)のオリエンタルで緻密なデザインや所在地であるグラナダの夕暮れ風景を見事に表現しているのです。(多分)

また彼は友人のピアニストIsaac Albéniz (イサーク・アルベニス)が書いたピアノ曲『アストリアス』をギター1本で弾けるように編曲するなどもしています。 (※このアレンジを行なったのはTárregaじゃない説もありますが…。) ギター曲を嗜む人が憧れる名曲の1つですね。静かに始まって、徐々に情熱的になって…音楽にストーリーがある。

Tárrega はギター曲の”音楽としての面白さ”を1つ上の次元に押し上げただけでなく、ロマン派音楽が衰退した20世紀以降も「ギター音楽」というものを定義づけ、根付かせています。

そんな彼が使っていたギターが、Antonio De Torres (アントニオ・デ・トーレス)のギターでした。Torresのギターは一回り大きく、また作り方もそれまでの製法とは変えられており、たった1本で十分な音量があったと言われています。ちなみにTorresは下の写真のような方です。

Torresはギター作りの上で”響きに最も重要なのは表板 (=サウンドホールのある黄色い面)である”と考えていました。そこで1860年代に実験的に、横板と裏板をボール紙で作ったFE14というギターを作ります。下の写真が、ボール紙で作ったギターです。表板こそが本当に重要なのであれば、横板と裏板は紙でも良いはずであるという…なんとも極端な仮説を元に作った個体ですが、結果はTorresの予想通り大きな音が出るものとなりました。もちろん、ボール紙のギターはあくまでも実験ですので、その後モデルにはなりませんでしたが、表板をよく作り込んだ方が良いギターになるということがTorresの中で確立したので、そこにこだわっていくことになります。

Tárregaの演奏を聴いて感動したTorresはFE17 (1869年製)というモデルを個人的に贈った他、SE49 (1883年製)、SE114 (1888年製)というモデルも渡しているそうです。これらのギターは現在頭のおかしな…ではなく、熱狂的な愛好家 (コレクター)の手に渡っており、ネットで写真を見ることができます。値段は載っていませんが恐らく結構立派な一軒家が建つと思われますね。

トーレスギターの特徴

Torresはギターのボディを最初に大きくした人だと考えられがちですが、それに関しては諸説あると思われます。(彼が製作家として活動した1850年代にはアメリカですでにボディの大きなギターがあったと言われてますので。) 彼の功績は「表板の重要性」にいち早く気付いた点だと、個人的には考えています。

Torresが変えたのは内部のブレーシングというパーツの組み替えでした。ブレーシングは表板の裏側に貼り付けてある力木 (ちからぎ)のことで、板を補強するだけでなく、弦振動をボディ全体に伝えたりするなど、音響面では塗装と並ぶ最も重要な部位の1つと言われています。

目に見えないので「そんなので本当に音が変わるの?」と、疑いたくなりますね。僕も製作家ではありませんので弾き手としての評価しかできませんが、やっぱりブレーシングが良いギターは音色が全然違うと思います。

この写真のように左右対称に放射状に貼り付けられたTorresのデザインはファン・ブレーシングと呼ばれています。Torres以前のものは水平に数本貼り付けただけのシンプルなデザインとなっており、音響はやはりTorresが考案したのものには劣ったとのことです。ファン・ブレーシングは後に (現在でも)クラシックギター製作のスタンダードなパターンとなっています。

ブレーシングのレイアウトには現在様々なアイデアがあり多くの種類が存在していますが、今あるブレーシングのパターンの大部分は、Torresの考えたものを軸にして製作家が各々独自の解釈を加えたものだと考えて良いと思います。

ブレーシングは重すぎると響きが悪くなるし、軽すぎると弦の張力に板が耐えられなくなってしまいます。木の密度も均一ではありませんから、板の厚みが同じでも右と左で重さが異なると、1つ1つ微調整しなければならず、作業は非常にデリケートになってしまいます。また乾燥によって割れたり、衝撃によって剥がれたりすると分かりやすく音質も剛性も下がりますし、修理も非常に難しいのです。

トーレスとラミレスとセゴビアと…

Torresが革新的なギターデザインを考案したとは言えども、多くのギター製作家は保守的で、それがスタンダードになるのはもっと先の話でした。Torres亡き後の20世紀においてもギターは尚スペインを中心とした庶民的なオモチャにすぎず、楽器としてはまだまだマイナー…。ギタリスト達は小ぢんまりとしたサロンで演奏活動できれば良い方で、コンサートホールで大衆の注目を浴びるようなことはほとんどありません。ところが19世紀末から20世紀初頭にかけて、あるギター製作家の台頭と、ある若手ギタリストの登場によってクラシックギターの地位が飛躍的に変化していきます。

スペインのギター製作家Manuel Ramirez (マヌエル・ラミレス)は、兄Jose Ramirez (ホセ・ラミレス)の元でギター製作を学んでいましたが、伝統的な工法にこだわっていた兄Joseとは異なり、Torresのような革新的なギター製法を好んでいました。また職人としてのプライドが高かったと言われており、兄の工房では足並みがうまく揃わず後に (仲違いして)自分の工房を持ち始めると、弟子たちとTorresの研究に明け暮れていたそうです。

Manuel Ramirezのギターは1893年のシカゴ万博にて世界進出したり、スペインの王立音楽院からの太鼓判をもらったり、順調に世間的な評価を得ていきます。ただ後継者がいなかったためManuelの工房は閉鎖されてしまいましたが、Domingo Esteso (ドミンゴ・エステソ)やSantos Hernandes (サントス・エルナンデス)など歴史的に値打ちのあるギターを作った有能な職人を数々輩出するなど、後世に残る名家となりました。

彼の名が広まるようになると、駆け出しのギタリストAndrés Segovia (アンドレス・セゴビア)が連絡を取ってきます。「コンサートをするからあんたのとこのギターを貸してくれ。」と。

当時楽器を貸し借りしてコンサートをすることは珍しくなかったそうです。職人が良い楽器を作ったら、その楽器に合う奏者がその良さを広めるための広告塔になる、いわゆるエンドースメント契約という関係がビジネスとして成立していました。現代ではメーカーが弾き手を選びますが、当時は逆もありえたみたいです。

そんなManuel Ramirezは若きSegoviaの演奏を聴いてすっかり惚れてしまい、賞賛の証にギターを1本差し出してしまうのでした。そのギターで演奏されたコンサートは大盛況だったそうです。後にManuel Ramirezは「聴衆がSegoviaに熱狂して拍手を惜しまないのをみた時、私は立ち上がって『おいおい!私の方にも拍手をしたらどうだ!』と思ったよ。」と回想したとか。職人から見ても、楽器と演者の相性が良かったんですね。

Manuel RamirezとAndrés Segoviaの関係は、まるでTorresとTárregaの関係に似ているなぁ…と、そんなことを思います。

Segoviaの演奏はそれまでの”指の腹を使ったかき鳴らし奏法”ではなく、繊細に音量と音色を爪で操ることが特徴でした。

Segoviaは演奏活動の中で、ギターを”コンサートホールでも使える楽器”にするという革命を起こしたと言えます。それは彼の新しい奏法だけではなく、彼にギターを渡した製作家たちが試行錯誤を続けたことによるシナジーがありました。

1960年代には、クラシックギターのボディや弦長はさらに大きくなり、それまで使用されていた”表板”を松から杉に変更します。また弦はガット (羊の腸)からナイロンに変わり、弦の張力や弦長が変わったことでブレーシングもさらにマイナーチェンジされ演奏性がグッと高まったのです。Torresの時代と大きく異なるのは、この仕様が製作家たちの間で広まってクラシックギターの基本的な仕様と化したことです。あれだけ保守的だった製作家たちの心を動かしたのは、理にかなった製法だけでなく、Segoviaのような名手の登場による影響が大きいのです。初期ロマン派のギター音楽低迷期から実に150年の月日が経っています。もちろん1960年代はエレキギターの普及や戦後音楽 (ロック)が台頭した時代でもありますが、コンサートで十分使える楽器としてクラシックギターが大衆に認知される十分な積み重ねがこの時代にはありました。※この辺のギター史に関しては別の記事で改めて書きたいと思います。

話をSegoviaに戻しますと、彼は教育にも力を入れていました。現代のギター演奏の源流と言っても過言じゃないかもしれません。(批判的な意見もありますが…。) また後年、イタリアのキジアーナ音楽院、アメリカ合衆国のカリフォルニア大学など名門校にて教鞭をとり、Oscar Ghilia (オスカー・ギリア)、John Williams (ジョン・ウィリアムズ)、Christopher Parkening (クリストファー・パークニング)などたくさんの名手を育てました。

そうした実績から晩年にはスペインで貴族の称号を与えられるなどしていて、Segoviaは「現代クラシックギター奏法の父」とまで呼ばれ、語り継がれています。

Manuel Ramirezはまだ無名だった頃のAndrés Segoviaの才能に気付き、彼に数十年に渡って愛用される名器を渡したのです。※Manuelが渡した個体はその後ニューヨークのメトロポリタン美術館に寄贈されました。

 

ここまでが大雑把なギターの近代化に関する内容です。情報量多めで恐縮ですが、今僕たちが楽しみのためにギターを弾いたり、職業としてギターが選択肢にあるのは、先人たちによる妥協なき努力の積み重ねの結果なんですね。そして現代の音楽が、ギターが、数十年後どうやって語られていくのかとっても楽しみです。

 

Midville’s
中村

音楽講師 / ビートメイカー

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